パイオニアケイビングクラブ(PCC)の活動 


 

沖縄体験ケイビング

 2003年1月31日(金)〜2月2日(日)にかけて、会社の同僚と沖縄の洞穴をいくつか回ってきたので報告する。同僚はスポーツマンではあるがケイビングは初めてで、1度体験してみたいと言っていたので、易しい穴だけを回った。
 素人でも入れてそこそこ面白い鍾乳洞はどこかを調べた。しかし、意外と沖縄本島の鍾乳洞を網羅的に紹介した本がない。芦田さんから『沖縄の自然と鍾乳洞』という本を借りた。高校の生物・地学の先生が学校の生徒向けに書いた本なので、洞口へのアプローチや洞窟測量図がついていない。
 これでは行動予定が立てられないので、インターネットで沖縄戦のガマを調べたら、「沖縄戦の記憶(分館)」というホームページを見つけた。これにはずいぶん詳しく紹介されていた。主なガマは洞窟見取り図や沖縄戦当時の洞内配置図(兵隊区域、民間人区域、病院区域など)まで載っていたので、そこにゆくことにした。

 1月31日(金)、南部方面。
 那覇空港からバスセンターまでのつもりで拾ったタクシーの運転手が「南部の穴ならまかせておけ」と言うので、そのまま午後一杯貸し切りにしてもらって南部の穴を回った。ところが、この運転手の言は丸っきりのハッタリ。最初に伊敷の轟壕に行ったら、伊敷集落への入口を通りすぎてしまい、当方から「これでは行き過ぎですよ」と言われて引き返す始末。伊敷への細道に入ってからも車に出会う度ごとに何度も聞いてやっと轟壕の小さな看板のあるところにたどりついた。

・轟壕(トドロンガマ)
 整地された小さな広場から階段でドリーネの底に下る。短い鍾乳石が無数に垂れ下がった壁の下に、小さな洞口が開いている。入ったところは水平洞の中間で水流がある。長さは1200mで軍民合わせて1300人が避難していたとのこと。
 この付近の天井高は人の背丈ほどの高さで、洞床は落盤で歩き難い。この壕で奇蹟的に助かった生き証人が、20人ほどの中学生を相手に説明していた。生徒はヘルメットも被らず手持ちの懐中電灯だけで怪我をしないか心配だった。
 右手、上流方向に50mほど進むと浅いプールになり、わずかに下水の匂いがする。『沖縄の自然と鍾乳洞』によれば、ここは浅いので長靴を履いていれば奥へ進めるはずだったが、一歩踏みこんだら底のヘドロにどんどんめり込んでしまう。10mほど先には基盤の上を水が薄く流れているのが見えるが、下水に漬かって進むのは気持ち悪いので、あきらめて引き返すことにした。
 下流側はかなり天井の高い洞が続いている。100mほどで大きな広間があり、その先は人工的な深いプールになっていた。プールの天井を通して直径30cmほどのパイプが打ちこまれいた。昔はこのプールの水を揚水していたようだ。上流側を軍隊が、下流側を民間人が使用していたとのこと。

・真壁アンガー
 泥だらけの長靴を脱いで登山靴に履き替えてからタクシーにのり、真壁の真壁アンガーに向かう。真壁に着いてからも地元の人に何回も聞き返しやっとアンガーにたどり着いた。地元の人でもガマを知らない人のほうが多い。約60年経っているので、地元でも沖縄戦はもう過去のものになった感じ。
 真壁アンガー『琉球琴三味線教授』という看板のかかった民家の近くにあった。しかし、看板も出ていない。道路から堀割のような道を50mほど緩やかに下ってゆくと、小さな石灰岩の壁に、まるで防空壕のように入口が開いている。しかし、自然洞であることはすぐ分かる。この穴は250mで、天井の厚さは薄そうだ。
 入口の階段を降りきったところで水流が洞底から湧き出し、奥に向かって流れている。入口の大きさはさほどでもないが、内部は幅10m、高さ4mぐらいと大きい。洞床は、薄く泥が被った凸凹な基盤となっているので滑りやすい。ほぼ一直線でゆるく下っている。天井から鍾乳石やストローが無数に垂れ下がっているが、床上の二次生成物はほとんどない。150mほどで四つんばいにならないと進めなくなったので引き返す。

・ガラピ壕(第一野戦病院分院壕)
 次に新城のガラピ壕に向かう。新城の集落で何回も聞いたが分からない。最後に親切な人にめぐり合い、車でタクシーを先導してくれた。新城の集落からは大分離れているようだ。そのため地図にプロットできるほど正確な位置はわからなかった。
 自動車道路に面して小さな看板が出ているところから20mぐらい私道を入ると『立入禁止、ガラピ壕地主』の看板がでている。
 ガラピ壕は700mで貫通洞となっていて、反対側の入口はヌヌマチガマと呼ばれているそうである。

・糸数の壕(アブチラガマ)
 玉泉洞の横を素通りして糸数に向かう。運転手が「なぜ玉泉洞に寄らないのか」といぶかしがっていた。小高い石灰岩台地に登るとそこが糸数。そこでまた何回も聞き返し、やっとアブチラガマの入口に着いた。石灰岩の山すそにあるものと思っていたら、集落の中の全くの平地に開いた穴だった。
 ここは沖縄戦の史跡として良く整備されていた。長い気根の垂れ下がった入口を階段で下ると、洞内は遊歩道ができている。史跡保存会にたのむと生き証人による案内も聞け、洞内の照明も点灯してくれるとのこと。全体で500m、洞幅は20〜30m、洞高は10〜15mという感じ。二次生成物はほとんどないが、洞底には小さな川が流れている。
 ここは南風原陸軍病院糸数分院が入っていた壕で、ひめゆり隊の一部もここで看護活動をしていたそうだ。HPの洞内図にはかなり詳しく当時の様子が紹介されている。随所に、空気穴、便所、死体安置所、破傷風患者ベッド、病棟、治療室などの看板が立っている。支洞の小さな出口のほかは、人工的にあけた空気穴だそうだ。

・親慶原ヤージガマ探索
 次は親慶原に移動し、「ケイビング入門とガイド」に紹介されていた親慶原ケイブシステムのヤージガマを探す。親慶原の三叉路付近であちこち聞きまわったが分からなかった。目標の消防署は現在は1km西の方に移設されているとのことなので、その消防署に行き、「昔、消防署のすぐ裏にドリーネがあり、穴が開いていたはずだが」と聞くと、「確かにあった。でも今ではゴルフ場の金網の中で入れないよ」とのこと。
 また三叉路まで引き返し、角のGSで聞いたら、あのポンコツ車の屋根に乗れば金網は越えられるとヒントを与えてくれたので、早速乗り越えてジャングルを進んだら、すぐドリーネがあった。ハブが心配だったが幸い出くわさなかった。
 直径20mほどのドリーネの底に穴が開口していた。その穴を10mほど下ると横穴になっていた。横穴部分は泥が厚く堆積していた。奥に入りたかったがタクシーの運転手に洞口を見たらすぐ引き返すと約束していたので、我慢して引き返した。その横穴は北に伸びていたのでひょっとするとウフニクガマの出口かもしれない。
 GSの人の話では「もうひとつ穴がある」とのことだったので、それと思しき辺りに移動し、近くにあった食堂で聞いたが、「穴があるとは聞いているが、この道の奥かどうかは分からない」とのこと。時刻も17時を過ぎて運転手がじりじりしている様子なので、残念ながら那覇のホテルに引き上げることにした。

 2月1日(土)、読谷、普天間方面。
 タクシーを使っても意味がないことが分かったので、今日はバスで読谷へ。波平を通るかと聞いたら、バスの運転手が我々のスタイルを見て「波平のどこへ行く」というので、シモクガマだと言ったら、実に詳しく道順を教えてくれた。
「チビチリガマは行かないのか」と言うので、「時間が余れば行く、場所を教えてくれ」と頼み、道順を教えてもらった。バスで通過する際、「チビチリガマはこの道を入るのだ」と教えてくれた。タクシーの運転手よりよっぽど頼りになる。

・西下区ガマ(イリシモクガマ)
 おかげで西下区ガマはすぐ分かった。ちょうど米軍の楚辺通信所(通称:象の檻)の北東側の繁みのある窪地に開口している。2000mという長さから考えると、象の檻の真下を通り、向う側に突き抜けているいるはずだ。
 波平の農道からしっかりした踏み跡を70〜80mたどるとイリシモクガマの洞口。高さ10mほどの石灰岩壁にかなり大きな口が開口している。洞口には小川が流れ込みプーンと下水の臭いがする。波平の下水溝として利用されているようだ。洞床は幅10mぐらいでかなり広い。川の流れているところだけが一段低くなっている。
 洞窟の形そのものは間違いなく立派な鍾乳洞だが、大きな下水溝の中を歩いている感じだ。天井が低くなったところを腰をかがめて進むと淵になり、その水に入らなければ進めない。下水に漬かるのは真っ平なので、ここで引き返す。その小さなホールの真中に白っぽい大きな植物が2mほどの高さまで成長していた。こんな真っ暗な中で大きな植物が成長するとは思わなかった。
 洞口に出てきてから入口に建っている石碑を読んだら、ここには1000人ほどの民間人が避難していたが、ハワイ帰りの○○さんが、投降して出ることを薦めたので1000人の命が助かったと書いてあった。米軍が民間人をどのように扱うかを知っており、英語が話せたことが、みんなの命を救ったことにつながったのだろう。

・チビチリガマ
 次に、1kmほど離れたチビチリガマに行った。ここは入口にトイレも出来ているほど整備されていた。階段で5mほど降りると浅いドリーネの底になり、左手にチビチリガマの洞口が開いている。幅10m高さ2mほど。洞口の脇にチビチリガマの悲劇を象徴する像が作ってあった。入口には「ここに入らないで下さい。我々の家族の墓を踏みつけられるようで我慢できません」と書いてあった。たくさんの千羽づるもかかっていた。
 石碑を読むと、ここではイリシモクガマとは逆に、投降を拒んで集団自決したそうである。自決した人の氏名と年齢も刻んであったが、老人と子供が多かった。バスの運転手がチビチリガマも薦めた理由がわかった。
 チビチリガマの右側に川が流れ込む大きな洞口が開いていた。しかし、洞口まで滝となって落ちているので近付くのは難しそう。しかも下水なのでここも敬遠して、普天間周辺の穴に向かった。

・普天間権現洞
 普天間でバスを降りて、すぐ近くの普天間権現へ。社務所に「鍾乳洞を見せてれ」と頼むと、我々の格好から「なにか調査ですか。奥に入るなら許可が必要です」と聞かれた。「今回は調査ではない、見るだけ」と言ったら、「それでは奥まで入れませんが、宜しいですか」とのこと。
 拝殿の脇にある石造りの小門を入るとすぐ洞口。洞口は立派な鍾乳石の垂れたホールになっている、その正面に神様が祭ってある。平尾台の千仏洞の洞口に似ている。そのホールの左右に伸びる穴の部分だけ照明されており、鍾乳石・石柱が豊富で見ごたえがする。右手の穴は50mほどで鉄格子のはまった出口に達する。左手の穴は5mほどで床近くまで垂れ下がった大きな鍾乳石の後ろに消えている。ここから先は特別な許可が無いと入洞禁止だそうだ。この穴も天井の石灰岩の厚さは薄い。

・野嵩のターバルガマ
 普天間権現から15分ほど歩くと、野嵩の台地に達する。ターバルガマ(2000m)を探すが、いくら聞きまわっても知っている人がいない。お年寄りのいる店や郵便局員にも聞いたのだが。とある街角でかなりの年配のお年寄りに出会ったので聞いたら、やっと知っているという反応が返ってきた。
 道順を聞いても沖縄の方言でよく分からない。通り道だからついて来いというジェスチャーをするのでついて行った。そこにはマンションが建っていた。この辺のガマはみな埋めたてられ住宅地になっているとのこと。お礼を言って別れたが、60年の歳月をつくづく感じた。他のガマも2〜3探してみたが、いずれも同じ運命だった。那覇への通勤圏にある住宅地のガマはほとんど潰されてしまっているらしい。
 でも、湧泉だけはいくつか残っていた。台地の頂上からたかだか3〜4mぐらいしか掘っていないのに、よく水が湧くものだ。この水源は雨水なのだろうか。看板も建っていない無名の湧泉、野嵩クシヌカー湧泉を回った。たまたま水を汲み来た地元の人に「この水は飲めるか」と聞いたら、「飲まない方がいい」と言っていた。住宅地が増えたのでいろいろ混ざっているらしい。

 2月2日(日)、親慶原方面。
 ホテルからバスターミナルまで乗ったタクシーの運転手が我々のスタイルを見て、しつこくタクシーに乗ってゆけと薦めた。先日の例を話し、「タクシーは全然役に立たない」と言ったら、「そのタクシーは中部のタクシーではないか。自分は南部のタクシーなので良く知っている」と言い張る。「それでは親慶原の、ヤージガマ、ウフニクガマ、クラガー、ワリミーを知っているか」と聞いたら、流石にこれは手が出ないと思ったようだ。
 バスで親慶原の三叉路まで行った。そこで片っ端から聞きこみを始めた。とうとう、あるドライブインのオーナーが知っているらしいという情報を聞き出した。そこに行って、おじいちゃんに話を聞いた。

・ヤージガマ
「名前は分からないが、かなり長い穴があった。しかし、今では、入口は全てゴルフ場の中になってしまったので入れない」とのこと。ここで諦めかけたが、「長い穴の出口はどの辺ですか」と聞いたら、「この道のずっと先のくぼ地に出た。今は多良川という酒造工場がある脇だ」とのこと。そこはゴルフ場の外らしい。
 小躍りしながら、そのドリーネに駆けつけ、生い茂っている草を掻き分けて降りていったら、摩滅した階段があるではないか。同僚と手を握り合って喜んだ。
 ドリーネの底には幅10m高さ2mぐらいの横穴が開口していた。洞口付近にはかなり大きな巻貝が多数落ちていた。沖縄戦の時の避難民が食料代わりに食べたものだと何かで読んだことがある。
 早速ツナギに着替え、長靴に履き替えた。上流の出口はゴルフ場の中なので同じ道を引き返す予定で、荷物は洞口に残した。
 洞窟に入ると泥が厚い。流れに沿って進む。一本道の穴なので帰りは流れについてくればOKと安心する。天井にはツララ石や鍾乳管が密生しているがどれも泥水に漬かったようにどす黒い。どこまで行っても同じような景色が続く。天井が低く、流れの中を歩かなければならないところもあった。暫く進むとゴルフ場の水組み場所らしく、側面に出口が開き、揚水ポンプが設置してあった。
 それから上流は、流れの両側に泥の層が厚く堆積し、流れの屈曲に応じて左岸・右岸に渡りながら進む。流れを渡るところには、みな橋がかけられていた。橋といっても足場用のアルミパイプでできた一本橋だが、全部で16箇所も橋がかけてあった。これはヤージガマがゴルフ場の用水路を兼ねているので、その流れをキレイに保つための見回り道なのかも知れない。
 いずれにしてもそのおかげで楽に進めた。大きな落盤箇所で流れは右方向に深い淵となって分かれてゆき、人が通れそうな通路は左方向に分かれていた。その穴を進むと直径30mほどのドリーネというより天井の落盤穴にたどり着いた。落盤穴の周囲の壁は垂直で外には出られなかった。
 さらに上流に続く穴を進むとドリーネになり、ゴルフ場の中に飛び出してしまった。旧消防署の裏のドリーネの穴とは違う。ゴルファーやキャディーがこちらを見ていたが、不審な目で見ている感じではなかった。こういうことがよくあるのかもしれない。しかし、洞内の泥に残された足跡は相当以前のものという感じがしたのだが。下流の入口からここまで1時間を要した。
 また穴に潜り、来た道を引き返した。中間の揚水場までは難なく戻れたが、それから先でかなり迷った。水流について下ればよいはずなので、水流について下っていったら、どうも通過した記憶のない屈曲部に出た。おかしい、水流に沿って一本道なのだからルートを間違えるはずはないのだが。
 一旦揚水場まで引き返し、注意しながらもう一度下った。やはり、出口に到達する前に同じ屈曲部に出てしまう。念のため、相棒を残してその屈曲部を1人で突破してみた。かなり深い。水深はへそぐらいまで。これは明らかに違う。入ったときは長靴以上の深さはなかったからだ。出口が消えてしまった。このときは少々焦った。
 少し引き返して、流れの脇にある5mほどの泥の壁を登って天井近くに行ったら、洞口の明かりが見えた。このときはホッとした。大水の時はこんな上まで水位があがるのかと驚いた。
 入洞直後、流れに出会ったときの地形観察を十分やっておかなかった証拠だ。ほうほうのていで出洞し、濡れたツナギを着たまま、ウフニク、クラガーを探しに行った。気温が高かったので寒さは感じなかった。

・ウフニクガマ
 親慶原の三叉路を左に曲がり、じきに右折して小さな鞍部を越えると、確かに「ケイビング入門とガイド」に書いてあった用水路があった。草を掻き分けながらそれに沿って進んだ。草を掻き分けるより用水路に入ってしまったほうが楽そうなので用水路に入った。山際の崖の下に、かなり大きなウフニクの入口があった。
 今は養豚場も無くなったので豚のし尿の匂いはなかったが、下水らしく、いろいろな物が流れ込んでいた。用水路の水はウフニクの入口にある小さな吸いこみ穴に吸いこまれてしまい、洞内は水が流れていなかった。奥に進むに従って泥が深くなり、長靴が抜けなくなったので引き返すことにした。
 次にクラガーを探しに用水路に沿って上流方向に進んだが、もう時間が残り少なくなったので、近くにあるサトウキビ畑に入って着替えた。日が当たり、下は乾いたサトウキビの葉っぱが敷き詰められていたので暖かった。親慶原のバス停までは10分ほどで着いた。これで沖縄体験ケイビングも終わり。相棒に言わせると、「ケイビングとは泥ばかりだね」という感想で、リピータにはなりそうにない。

(小堀 記)  

 

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